ギニョっち通信

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宗教基礎知識-仏典の99%は偽物!?-


これから宗教の教義の変化の原因、「メタファー」「方便」など宗教について考える際に必須の概念について簡単に説明します。

もくじ
●葬式仏教
●異なる社会倫理との接触―セックス・スカトロ仏教―
●無教養者への迎合―仏が異教の神をボコボコにして改宗させる神話―
●メタファーの読み間違い―イスラム教の豚肉禁忌―
●教義の偽造―仏教教典は99%偽物―
●翻訳で変質する教義

 


●葬式仏教
「現在の日本仏教の堕落」とは「葬式仏教」的な方向性の堕落と、二つ目に「教義劣化(?)」という方向性の堕落があります。
宗教学者島田裕巳がよく本を出して批判している、日本仏教にしかない「戒名」「葬式(料)」などの集金システムが、前者の「葬式仏教」的な日本仏教の堕落を象徴する例として有名です。
徳川のキリスト教弾圧(踏み絵・改宗強制)は、日本史上で仏教が、特に浄土系宗派や法華系宗派が起こした一揆のような反乱の再来を恐れてのことです。
幕府は、日本人全員を各寺院の檀家になる事を義務付けました。それにより、キリシタン日蓮宗不受不施派のような反動体質の宗教の信者をあぶり出す一定の効果がありました。
檀家になるという事は、葬式も仏教式になるわけで、キリストの絵を踏む事すら拒否するような敬虔なキリシタンには耐え難いものでしょう。
またこれには反動体質の宗教の信者をあぶり出す以外にも、寺院の権威=求心力を低下させ、かつての一揆のような反動を防止する目的がありました。というのも、
檀家になった証明書は結婚・関所手形などの用途があり、寺の権力が増し、また葬儀などにより財力も増しました。その分庶民への還元を行わなかった寺院は、求心力を失うばかりでした。
徳川幕府の仏教権威失墜戦略の効果は、(原始仏教回帰を唱え既製仏教批判をする)オウム真理教が人気を集めたように、現代まで続いています。
また、寺院は廃仏毀釈による寺領没収、そして戦後の農地改革により、土地を使っての営利行為を出来なくなり、いよいよ葬儀などの儀式でしかお金を稼げなくなり、ますます「葬式仏教」化していきます。
オウム真理教は「初期仏教」への回帰を唱え、(葬式仏教という語句が一般的になるほど)堕落した日本仏教を嫌悪する層の人気を得ました。(オウムは葬式仏教よりも利潤追求をしていましたが)

以上の参考文献…島田裕巳「葬式は、いらない」 村井幸三「お坊さんが困る仏教の話」
ちなみに、日本仏教では伝統的に、出家している男児を、先輩僧侶が慰安夫にする行為も行われていました。これについては松尾剛次「破戒と男色の仏教史」に詳しく書かれています
(聖職者同士の男色行為は日本の仏教だけの行為ではないですが)。

そして二つ目の「教義劣化(?)」という方向性の堕落。
実は宗教の教義は、時間経過や、異なる文化圏に伝わる事により大幅に変化します。上述の「葬式」「戒名」ビジネスで莫大な収益を上げるのは日本の僧侶だけですが、
日本に仏教が流伝した初期はこのようなビジネスはありませんでした。無論、釈迦もこんな事はしなかったし、こんなビジネスをしろという教義も作っていません。
宗教の教義は、仏教に限らずどんどん変化していくものです。そもそも仏教には天国も地獄も無いようなものだし、キリスト教にも最初は天国はありませんでした。
後世に、あるときは為政者が市民支配のために、あるときは僧侶がその時代・情勢・文化圏によって変化する悩みに対応するために、逐一教義を創作しました。
宗教の教義が変化する原因を解説します。
●異なる社会倫理との接触―セックス・スカトロ仏教―
仏教には「密教」というセクトがあります。端的に言えば、神秘体験や実践修行を重視するセクトです。時代変化とともに変化を遂げており、主に「前期」「中期」「後期」と分類されます。
前期密教…まじないじみた迷信的信仰です。つまり、賽銭とか願掛けみたいな呪術=まじないを中心とした信仰です。仏教の特色である高度な論理性・哲学性・現実主義性がありませんでした。
中期密教…日本に伝わっているセクトです。天台宗真言宗が有名です。
後期密教…セックスや糞食など、過激な修行法を持つセクトです。現在はチベット及びその周辺国で信仰されています。オウム真理教チベット密教が有名です。

「後期密教」は、空海が中国に渡った200年後、インドから中国へ伝わりました。
「じゃあ空海が200年遅く中国留学していたら、日本のお坊さんは今頃、後期密教に則って寺の中でウンコ食ってセックスしていたか?」否、違います。
インドと比較して、当時の中国は道教儒教大乗仏教・中期密教などが地盤を築いており、既に社会及びそれに付随する社会倫理が発達していました。過激な修行法が輸入される余地はありません。
また、当時の仏教では、禅系の宗派を除き、僧侶は労働を禁止されています。パトロンからのお布施を募る行為「乞食(こつじき)」によってのみ生活をしなければなりません。
そうなってくると、政府からの庇護が重要視されます。
中華人民共和国北朝鮮では「教条主義的・反動的である」として仏教は排斥されていますが、当時も、中国の中央集権的な政治構造に擦り寄るため、中期密教僧侶は幾つかの教義を捻じ曲げました。
これも政府からの庇護を得るためであり、またこのような行為は中国中期密教僧だけでなく、インド前期密教僧もしていました。(松長有慶「密教」、ツルティム・ケサン、正木晃「増補・チベット密教」)

で、セックス・スカトロ修行について。
11世紀のチベット国内での仏教の流行から現代に至るまで、チベットではずっと後期密教(先述の、過激な修行法を持つ密教)が主流派だった。
密教の「密」とは、教えを積極的に広めない。という意味である。なぜ広めないか?先鋭的な修行法(つまり非倫理的であったり、危険な修行法)であるため、
むやみに公開すると、社会からの反発・批判であったり、知識のない素人が実践して心身に問題を持つ(ヨガや座禅でいう「魔境」「クンダリニー症候群」。
オウムの新実智光はこの「魔境」によって、わざと自動車事故を起こしたりするなど精神的に不安定になっていた。)恐れがあるためだ。

オウム真理教が教えの軸にしていたのはチベット密教ニンマ派の教義。仏や神がたくさん乗った木をイメージする観想法、夢を操作するヨガ、などの修行法がある。
現在のチベット仏教のトップ、ダライラマ14世は、初代ダライラマ1世の生まれ変わりです。ダライラマは生まれ変わりで世襲します。
ダライラマ13世は死ぬ間際「こういう形の地形・家が見える」と言い遺しました。
で、実際に捜索隊がそれに似た場所を探し、そこに生まれ変わりっぽい子供が居たので、チベット政府によって13世の生まれ変わりとして認定され、ダライラマ14世になりました。
14世は「生まれ変わり世襲制度」の廃止を唱えて中国政府と対立しました。ここら辺のトラブルは面白いです。

で、ダライラマ1世の師匠は、ゲルク派の開祖・ツォンカパでした。ツォンカパは当時チベット仏教で流行していた、性的ヨーガなどの先鋭的修行法に対し、十分な倫理観を持って取り組まない僧侶が多く、
風紀が堕落していた現状に喝を入れる目的で、糞尿食や性的ヨーガなどの先鋭的修行法を大々的に禁じました(しかし実際は、現代に至っても禁止は徹底されていない)。
だがツォンカパさんが性的ヨーガなどの先鋭的修行方法の効能を認めなかった訳ではない、というかツォンカパさん自身が性的ヨーガの研究・実践・改良等に専念していた。(立川武蔵「マンダラ瞑想法」)

詳しい実践方法についてはテクストを読んだ事がないんですが、ネットで調べるとすぐ出てくる。恐らくヒットするであろうRAPTというブロガーのサイトは嘘だらけなので冗談半分によむといいです。
●無教養者への迎合―仏が異教の神をボコボコにして改宗させる神話―
宗教には「メタファー」「アレゴリー」「方便」という三つの用語があります。まず、この三つの用語を理解しないと、宗教は「一ミリも」理解できません。

ツルティム・ケサン、正木晃「増補・チベット密教」によれば、
5世紀までのインドでは、仏教とヒンドゥー教が二大勢力として均衡を保っていた。だが5世紀を越した所で、突如ヒンドゥー教の信者数が優勢になった。なぜか?
仏教は知的階層が対象だったため都市型宗教となり、僧院中心の活動に終始し、農村や一般庶民などの無学な階層への布教に熱心ではなかった。

だが5世紀以降、異民族の侵入と東西交易の退潮で都市は衰微、僧院の後援者である大商人も没落。経済と政治の中心が、ヒンドゥーが従来から支持基盤としてきた農村へ移り、仏教は衰退した。
仏教は現世の問題には冷淡であり、現世を肯定的に捉えるヒンドゥーとは対照的に、激変する現実に対し対応能力を欠きました。
戦乱の世で虚無主義的な事を唱える仏教は人気を集められない。宗教は精神安定剤です。社会情勢に対応して教義を再デザインしないと求心力を失います。
苛烈な現実に対応策を打ち出せない仏教は人々の支持基盤を失いました。
仏教は支持を巻き返すべく、教義を再デザインしました。しかし「哲学性・論理性を高める」という方法で人気を得ようとしたのではありません。
庶民は難しい事は理解できないからです。再デザインの方法とはずばり、庶民に人気だったヒンドゥー教の儀礼や神々を「ヒンドゥーの神は仏教に帰依した」として仏教に取り込む事です(!)。
宗教が大衆からの人気を得ようとする場合、殆どの場合が「論理性を高める」事で人気を得るのではなく、呪術的性格を強めるなどの方法で人気を得ます。

藤井明「インド初期密教と他宗教との関わり ―特に大自在天の記述を中心にして―」によれば
前期密教の僧侶が書いた「初会混合頂経」というテクストには、こんな神話が描かれました。
「ある日、金剛手(仏教の神)に従う事を拒否する大自在天ヒンドゥー教シヴァ神)に対し金剛手が呪文を唱えると、大自在天は死んだ。
すると金剛手は呪文を唱えて大自在天を蘇生させ、踏みつける。釈迦が悲心をもってまじないを誦し、大自在天の苦を鎮めると、大自在天は金剛手の足に触れたことで解脱門に入る。そして如来になる。」

要約すれば、「異教の神を神話に登場させてボコボコにし、自分の宗教に改宗させました。だから異教徒もその神と一緒にウチに来てね」という内容。
異教の神をボコる描写に目が行くが、当然のように釈迦が魔法を使っている事も注目すべきです。

冒頭で述べた「方便」、これは「無教養な人の関心を惹くための嘘」です。今挙げた神をボコボコにする神話も方便です。
小難しい理論を並べ立てても、現代日本みたいに、市民が一定の教育を受けられて、文字が読めて、小難しい理論を読解できるのが当然という社会は、世界史上ほとんどありません。
現代の世界でも少数派ではないでしょうか。アフリカなんかを見ればそうでしょう。
信仰すれば天国行き、のような都合のいいわかりやすい宗教を庶民は求めます。浄土真宗が日本一の檀家数誇っている。
荒井献「イエスとその時代」によれば、奇跡物語伝承(※方便のようなもの)は最下層に、言葉伝承(※論理的な側面の布教)は中間層にのみ分布したそうです。

ですが、下層階級のみならず、しばしば上流階級も「方便的=呪術的信仰」を求める事があります。
日本の貴族は、仏教が伝わってからは「座学・勉強をしなくても念仏だけ唱えとけば天国行きの浄土宗を信じよう」「呪術だけで幸せになれる真言宗天台宗を信じよう」みたいな感じで、
仏教の理論的側面ではなく、呪術的側面ばかりに気を惹かれました。当初の真言・天台の僧も、本当は貴族に仏教の論理性を知って欲しかったでしょうが、人気取りのために呪術ばっかりしていました。

上述の異教の神ボコボコ神話で当然のように釈迦が魔法を使っているのも、同様に、無教養者にとっては超能力が魅力的に映るため、そこに漬け込んだ「方便」です。
大川隆法は「自身と同じく、釈迦は神通力を使えた」と言っていますが、むろん宗教史を学べば、釈迦の神通力が単なる無教養な人への人気集め=方便だという事がわかる。
ただ「大川隆法も、釈迦の神通力を創作した僧のように、方便として超能力を自称している」という見方もできます。
つまり大川隆法が「幸福の科学を信じる事で幸せになれる人が居るから、一旦超能力という方便で注目を集める」という崇高な意図を持っていないとは言い切れません。

方便は悪い事ではありません。たとえば浄土宗は、それまで上流階級しか相手にしなかった仏教界に対抗し、下層階級へ布教をしました。
農民などの下層階級は時間も金も学もないから哲学的な事は考えられないので、浄土宗僧は「ただ単に念仏唱えとけば極楽に行けるよ」という嘘を吹き込んで精神安定を与えました。
こういう方便でどんどん宗教の教義は変質していきます。現代日本人が「全ての仏教の宗派には天国がある」と勘違いしているのも、この方便が原因です。

釈迦は「イカダのたとえ」をしました。「イカダは川を渡る時に必要だが、陸に着いて、渡り終われば捨てればいい」
この書き方における「イカダ」は「方便」の「メタファー」ですね。

アレゴリー」とは「寓話」です。これは「メタファーによって構成される物語」という意味です。コーランも聖書も「アレゴリー」です。ほとんどの文学や物語も「アレゴリー」でしょう。
たとえばジョーオーウェルの「1984年」は単なるディストピアSFではなく、全体主義を批判する意味を持った作品です。
作中の異様な全体主義社会は、当時の社会情勢を風刺したものです。アレゴリーです。

ここからは私の宗教観になりますが、信じている宗教が嘘まみれの偽神話だとしても、信じる事で精神安定を得られるのならば問題ないと考えます。
福田雅章が言ったように、カルト信者が一千万円の壺を買わされていたとしても、買った人がプラシーボ効果的に幸福を感じられればいいのです。
「”正しい”と実証できないものを”正しい”と自己暗示して信じ、精神安定を得る」という行為は、無宗教者でもやっているのではないでしょうか?

信者にとって真実なら、それは真実です。オウム信者の価値観=宇宙では、麻原彰晃の神話が正しいものとして機能している。
イスラム教徒の宇宙にはアッラーがいるし、クリスチャンの宇宙では聖書が真実です。信じたあとに、それと同期して「神」が発生するのです。
よく「麻原彰晃は神じゃないから信じるな!」と言いますが、神とは相対的なものです。人によって必要な神は違う。
イスラム教の自爆テロ犯に「アッラーは神じゃないから殉死しても天国に行けない。だから自爆テロをするな。」と、議員や芸能人が口にすれば大バッシングでしょう。
天皇ローマ法王ダライラマも、ウチの宗教こそ正しいんだ、とは言いません。人によって神は違うのです。

●メタファーの読み間違いーイスラム教の豚肉禁忌ー
宗教について考える際に必須の概念である「メタファー」「アレゴリー」「方便」について詳しく解説されたのが白取春彦「この世に宗教は存在しない」です。
著者の宗教観やメタファーの解釈が若干押し付けがましいですが入門書には最適でしょう。
「メタファー」といえば「響け!ユーフォニアムの楽器は全部チンポのメタファー」理論が一時期ネットを賑わせましたね。

宗教の教典は、メタファーが非常に多い。なぜならば、白取が言うには「当時は、概念語が少なかった」事が原因。
加えて「感覚言語」と「理性言語」というものがあり、詩や文学もそうですが、教典のように人々の心を動かす文書は抽象的な語で綴られます。
で、抽象的な文になると、メタファーも多くなる。メタファーの解釈の方法によっては、教義の曲解が発生する。
イスラム教にもキリスト教にも「このメタファーはこんな意味だぞ」と解釈を指導する宗教者がいますが、哲学者フーコーによれば、そのような宗教者の解釈すら、時代風潮や政治動向に左右されます。
教典内の感性言語を字義通りに解釈すると原理主義が発生します。
「アダムとイブが天国で林檎を食べ、その後”恥”の概念を覚えて局部を隠すようになった。」この「林檎を食べ」はセックスのメタファーだとされます。
コーランの豚肉忌避も、当時の中東の気候では豚の飼育は難しく、また豚肉は不衛生なので、豚は飼育せず食さないように。という旨を明文化しただけだとされます。いわば釈迦のいう「イカダ」です。
現代になって、我々は既に安全に豚肉を保管する「衛生技術」という陸に着きましたが、一部のイスラム教徒は未だにこの「イカダ」を「メタファー」として解釈しません。
キリスト教にも天国はありません。聖書にある「神の国」は、人間の平穏な心理状態のメタファーです。天国ではない。
モーゼが海を割る描写も、「当時の民族対立のメタファー」「新天地を切り開く事の重要性を表したメタファー」など解釈は割れています。史実として扱う人もいます。
仏教の輪廻転生・地獄天国も、「人間の心の中の状態」のメタファーのような部分がありますが、浄土系宗派やオウム真理教はこれを実在物として扱います。
私はオウム真理教の輪廻転生はメタファーとして解釈する余地があるのではないかと一時考えましたが麻原彰晃「タターガタ・アビダンマ第一誦本」にて、えらく詳細にあの世について描写されているので考えを改めました。
メタファーの読み間違い、あるいは意図的な読み間違いが、どんどん教義を変質させます。

●教義の偽造―仏教教典は99%偽物―
先ほど「あるときは為政者が市民支配のために、あるときは僧侶がその時代・情勢・文化圏によって変化する悩みに対応するために、逐一教義を創作しました。」と述べました。
その時代・情勢・文化圏によって必要な生活習慣や思想は異なります。高度な資本主義・多民族社会のアメリカにジャイナ教は適しませんし、アフリカの少数部族に武士道は適さないでしょう。
私が述べた「人によって必要な神は違う」という思想の延長線上に、この事実があります。

禅仏教のシンパの科学者J・フィリップス博士の発言を佐藤幸治「禅のすすめ」から引用します。
”人類がこれまでの割拠状態から”一つの世界”の状態に向かって急速に進んでいる時、人類の宗教もまた地方性を脱して”一つの世界”の宗教にならなければなりません。
そして、善以外にはほんとうの世界的宗教はないのです。もっともほかの多くの宗教も世界的宗教であると主張したには違いありませんが、
ほかの宗教はどれも時と場所との地方性を持っています。つまりそれらは特殊の民族に、特殊の時代と特殊の地方に役立ったものであって、全人類・全衆生に役立ったのではありません。
それはみなある形式またはある信条を絶対的なものとみようとするあやまちを犯しました。なぜなら、これらの形式や信条は絶対的なものではなくして、
歴史的に成約されたものであるか、もしくは特殊な地理的、社会的経済的環境の所産であったからです。現代人の目は無限を眺め、さえぎるものなくつねに拡大しつつある宇宙を眺めているのですから、
現代人の必要とする宗教もまたかれらの宇宙のように、その中心をいたるところにもち、その周辺とてはどこにもないものでなくてはなりません。
-人間が所謂宇宙時代に入り、探求と発見の全然新奇な時代に入るとともに、特殊な地方における特殊な事件に立ったこれまでの宗教は、
人間活動の広まっていく範囲内においては、ますます適切でなく感ぜられるでしょう。禅が西洋人を惹きつける理由は、なにはともあれ、その絶対的普遍性にあります。
禅はなんら固定した概念と結びつかないので、信条化した概念から必然的に起こる地方性を持っていません。
禅は歴史に立脚せず、地上のどのような地点にも立脚していません。禅の意義はどのような一連の形式にも、どのような時代の事件にも制限されません。
また、禅は決まった未来的展望にも制限されません。ですから、それは絶対的普遍性をもち、人生の実相に関心を持つあらゆる国の人に向かって語る正当な資格を持つものです。”

時代・情勢・文化圏によって、人間の悩みの種類は異なります。
血の池地獄」は、中国で偽造された教典(偽経)に描かれた、偽物の地獄です。
当時の中国の民間信仰に、「女性は出産で流血するから、その血の穢れによって地獄に必ず堕ちる」という思想が根強くありました。
これに悩む女性の救済のために、当時の中国の僧侶は「血盆経」という、血の池地獄について記した経典(釈迦が書いたという設定)を創作し、「これを写経すれば、血の穢れで地獄に行かずに済むよ」としました。
先述の「方便」の一種です。このように、時代・情勢・文化圏ごとに、変化する悩みに対応し、その都度、釈迦が書いた、という設定で文書を創作しました。
現存するほぼ全ての経典が、この血の池地獄のような流れで創作された偽物です。

「大乗非仏説」というものがあります。
釈迦が死んでしばらくの間、釈迦の弟子たちの教派が幾つか分裂し、均衡を保っていた(のちに小乗仏教と呼ばれる)。
ある日、「その諸教派(小乗)の教えは正しくない!」と立ち上がった僧侶達が、新たな革新的仏教体系「大乗仏教」を創設。
その際、新ムーブメント「大乗仏教」の教えと合致するような(権威付けるような)内容の経典(釈迦の教えを記述した文書)が、新たに、ザクザクと発見された。
不思議ですね?すべて創作です。
大乗仏教の経典は、全て、大乗仏教徒の捏造なのだ!」というこの仮説(実証されているようなものだが)を大乗非仏説と呼ぶ。
ムスリムが、自分の思想を広めたいがために、自著を第二のコーランとして「ムハンマドの新しい教典を発掘したぞ!」と偽って喧伝するようなものだ。
(ちなみに麻原は「小乗は本来最高の理論だったが、釈迦の没後に釈迦の弟子が修行・研究を怠ったため堕落し、結果として大乗が生まれざるを得なかった」と説いています)

大昔NHKで、チベット仏教の重要なテクスト「チベット死者の書」の特集に、宗教学者中沢新一が参与した。
で、チベット学者の山口瑞鳳が「チベット死者の書偽書であり、それに価値を抱く中沢新一はいかがなものか」と批判した。
実際に、チベット仏教では「新しい経典を創作し、それが古来からあるものだと人々を騙すため、わざとよごした創作経典を、発掘する」という事をする。
こうして”発掘”された書は「埋蔵経(テルマ)」と呼ばれ、少なくとも二十世紀初頭まで、チベットにて夥しい数の”発掘”が行われている。
しかし中沢は、偽書=埋蔵教である事を知った上で「チベット死者の書」を評価した。
「長いこと、人の世界にさらされて、無理解や歪曲によって、すっかり原初の輝きを失ってしまった」古いテクストもいいが、
ときには、新たに出現した「埋蔵教(テルマ)」のほうが真理についての「新鮮な霊感がみなぎっている」と。
チベットにおける偽経の美学(?)については中沢新一「三万年の死の教え」に詳しい。

繰り返すが、偽経は方便と同様に好意的に解釈できる。
大乗の創作者は、その当時の市民の精神安定に最も適するカタチの教義を広めたかったから、大乗を創作したんでしょう。
釈迦が生きていた頃と、大乗が創作された頃とは時代が違うのだから、むろん、市民の悩みの性質も変化する。最初期の教義ではカバーできない領域も出てくる。
創価学会日蓮宗日蓮正宗の親分「日蓮」も、「釈迦の時代と今の時代は、悩みの生ずる原因が異なるので、今の時代に適した仏法が必要」という理由で「第二の釈迦」のスタンスを自称しています。
麻原も、八正道は時代遅れだとして、6つの極限修行とか4つの極限修行などの新たな修行法を掲げています。

むろん、大乗経典といえども、仏教の基本的な理念である「因果律」「空」などはちゃんと踏襲しています。
それらの基本的理念だけ根底に置いていれば、あとはどんな教えを創作しようと自由です。教典の冒頭はほぼ全て「如是我聞(私は釈迦からこう聞いた)と始まりますが釈迦から聞いてなくてもいいんです。
「如是我聞」は「仏教的理論から私が創り出した理論はこのようなものでございます。」という意味に実質なっています。
小室直樹「日本人のための宗教原論」で述べられたように、教典を偽造し放題であるという事が、仏教の論理性を高める一つの要因となりました。

聖書にもこうあります。
「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。盛んに発酵する新しいぶどう酒が古い革袋を張り割いてしまうからである。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならない。」
ぶどう酒は「悩み」、革袋は「教義」のメタファーですね。

●翻訳で変質する教義
釈迦は、自分の教えを文書にして残す事を禁じた。諸説あるが、理由は以下の2つに大別できるだろう。
1「言語によってニュアンスや意味が固定化される事で、教義の内容が曲解される可能性がある」
・さきほど「宗教は言語学を内包する」と言ったが、まさにこれだろう。フロイトは「人間の心の最深部にあるのは言語」、ユングは「人間の心の最深部にあるのは感覚」と考察した。
 恐らく釈迦は後者だと考えていたのだろう。作家で僧侶の南直哉は著書「賭ける仏教」において「無明(心理の中の根本的なバイアス)」という仏教用語を「言語世界」と解釈した。

図説…オウム真理教の精神解釈● 小室直樹らは「真我」の実体化と、その掘り下げが不十分だとしてオウム真理教を仏教ではないと分類する。
(画像)

 私も合法LSDをしつつ瞑想をしている時に仏性・諸行無常・色即是空という仏教的観念が頭の中に生じるが、それを文字化しようとしても、どうにもその観念を言語に変換できない。
 やはりユングが説いたように、哲学的・形而上学的な理論は、ある程度の深度からは、言語に変換不可能になるのだろう。
 天台宗最澄真言宗空海は、前者が「人間の心理の最新部は言語」後者が「人間の心理の最新部は感覚」とし、対立しました。
 空海は言語による修行ではなく、体も使って修行しなければ仏法は理解できないと考えました。ここら辺は岸良範・山口豊ユング心理学密教」で詳しく解説されています。短くて面白いですよ。
 で、話を戻します。釈迦は文書での伝承ではなく、口話での伝承を選択したが、それにも問題があった。
最初に執筆された経典(釈迦の教えを文書にしたもの)である「阿含経」であっても、釈迦の死後約100年~200年経過してから作られたものだ。
釈迦の教えを聞いた者達が、教えを記憶した。それが口伝で何世代か継承されたものを、文書にまとめるというプロセスで作られた。
恐らく、記憶を口伝する過程で、記憶者によって忘れられた教義、変化したニュアンス、覚え間違い、読解力の不足…などの要因から、
阿含経の時点でも、釈迦の教えのニュアンスの大部分が失われた事に疑いの余地はないだろう。

2「翻訳によってニュアンスや意味が失われる」
「sunya」という概念を解説した経典が、インドの言語から諸国語を経て中国語へと重訳される過程で「sunya」という単語のニュアンスが原典から変化している。
「sunya」とは「空」だ。だが「sunya」と「空」は意味の異なる概念になってしまった。(現在は史料批判によってこれは解決された(?))
インターネットの機械翻訳で、同じ文章を日→英→日のように再翻訳すると、全く意味の違う文になってしまうが、人間がおこなう翻訳でも同様の現象は起こる。
ちなみに「空」についての経典が書かれた頃、インドには「ゼロ」の概念があったが、中国にはなかった。「空」の解釈も違ってくるでしょう。

ノーベル文学賞の時期に村上春樹の本の翻訳に頭を悩ます翻訳家が取材されているが、文学や宗教教典のように、先ほど述べた「感覚言語」で綴られた抽象的な文書は非常に翻訳しにくい。
コーランや聖書の外国語訳が禁じられたのも、「sunya」が「空」になってしまうような事態を恐れての事だろう。

仏教宗派には「依経(えきょう)」と言って、自分たちの宗派が最も重要視する経典を設定する文化があるが、大乗非仏説に則れば、その依経自体が偽経だとされる宗派ばかりだ。
ちなみに他宗派の経典を偽経偽経だと口撃する日蓮系宗派も、最近になって考古学のレベルが上がってから自分たちが依経にしている法華経偽経だと判明してしまった。
阿含宗阿含経を「唯一の釈迦直伝の経典」と謳っているが、科学的な見地から言えば嘘だ。

よくオウムに対して「あなたの教義のこの部分、仏教に反してますよ」と批判する人がいるが、「信仰」とはすなわち「曲解や取捨選択をする事」だ。
最初期の教義に一切反してはいけないとするならば、99%の仏教徒は信仰を奪われる事になる。その上「宗派」「教派」というものもこの世に存在しないだろう。
また、「オウムの教義はキリスト教ヒンドゥー教や仏教の教義を寄せ集めたパッチワーク宗教だ」と主張する人がいるが、ほとんどの宗教が他宗教のパッチワークだ。

オウム真理教を「仏教の異端」として解釈する人は少ない。仏教学者のほとんどがオウムは「仏教」ではないと断言している(■lll.「宗教体験」としてのオウム真理教 1988)。

で、ここまでで宗教に関するあれこれを解説しましたので、「次にヒットする新興宗教の作り方」のシミュレーションに戻ります。